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助っ人列伝

日本球界に大きな影響を与えた「考える野球」

日本野球の“礎”となったブラッシンゲーム(1963年撮影)。(Getty Images)

 ついに始まったWBCで激戦を繰り広げている日本代表チーム。日本の野球と言えば、緻密で考え抜かれた、隙のない野球というイメージで、実際にそうした要素が国際大会で大きな武器となってきたが、その礎となった「考える野球」を日本に持ち込んだのは元メジャーリーガーのドン・ブラッシンゲームだった。

 ブラッシンゲームは1950年代から60年代にかけてカージナルスやレッズ、セネタース(現レンジャーズ)などで主力としてプレー。特に二塁手としての守備には定評があり、カージナルス時代の1958年にはオールスターにも選出されている。59年に来日した際の試合で見せた逆シングルでの捕球からのダブルプレーは当時の日本球界に衝撃を与えたと伝えられている。

 メジャーリーグでは12年間で通算打率2割5分8厘、21本塁打、308打点、105盗塁という成績を残したブラッシンゲームは、67年から南海(現ソフトバンク)でプレー。ブレイザーの登録名で過ごした3年間での打率2割7分4厘、15本塁打、86打点、13盗塁は目立つ数字ではなかったが、彼の真価は数字に表れない部分、野球に関する考え方にあった。

 南海でチームメートとして過ごし、後に監督就任の際にはブレイザーをヘッドコーチに招へいした名将・野村克也いわく、「ブレイザーが来なかったら、日本の野球は相当遅れていた」。

 例えばヒットエンドランの際に二塁ベースカバーの隙を突いた打撃をすることなど、現代では当然とされるセオリーも、ブレイザーが伝授した当時の日本では目からうろこの指摘だった。彼からの教えをID野球として昇華した野村は、ブレイザーの功績をことのほかたたえている。

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8年の時を経て日本に戻ってきた右腕

阪神、日本ハムに在籍したカーライル。(Getty Images)

 複数回にわたって日本の球団と契約した外国人選手は何人もいるが、それが8年越しの再来日というのはさすがに珍しい。そんな野球人生を歩んだのが右腕バディ・カーライルだ。

 ドラフト指名は1996年の2巡でレッズからと高い評価を受けてプロ入りしたカーライル。ただし2年後の4月には早くもパドレスへとトレードされてしまう。ちなみにこの時のトレード相手は、後に日本で剛腕クローザーとして大活躍したマーク・クルーンだった。

 99年にはメジャーデビューして初勝利を挙げたカーライルだが、7試合の先発で1勝3敗、防御率5・97と振るわず、翌年は4試合しか出番を与えられなかった。まだ23歳と若かったカーライルは活路を国外に求め、阪神への入団を選んだ。

 2001年の阪神といえば、まさに暗黒時代の真っただ中。そこで来日1年目に7勝10敗と負け越しながらも防御率3・87は健闘した部類と言ってもいいだろう。ただし翌年は未勝利に終わって日本を去ることになる。

 その後はほぼマイナー暮らし。2006年には韓国のLGで主にリリーフとしてプレーしたカーライルにとって、2007年から在籍したブレーブス時代がメジャーでのキャリアのハイライトだった。2007年は1イニングを3者連続3球三振という快挙を達成するなど、主に先発として8勝7敗と勝ち越し。翌2008年はリリーフで45試合に登板している。

 もっともブレーブス在籍3年目の2009年には成績を落とし、そのオフには日本ハムと契約。8年ぶりの来日が決まった。だがかつて阪神で健闘したピッチングは見られず、7試合に投げて未勝利と期待には応えられなかった。

 アメリカに戻ったカーライルは11年にメッツで8試合に登板したものの、その後はまたもマイナーを転々。さすがに30代半ばになってのメジャー復帰は厳しいかと思われたが、2014年にメッツでメジャー昇格を果たすと、27試合で防御率1・45とこれまでにない安定感を披露する。37歳で迎えた翌15年はわずか11試合で防御率5点台とさすがに成績を落としたが、開幕戦ではセーブをマーク。これは実にメジャーデビューから17年目にして初のセーブだった。

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メジャー400試合登板の左腕が来日も不運に見舞われる

2012年のワールドシリーズで力投するコーク。(Getty Images)

 毎年1000人以上が指名されるメジャーリーグのドラフトにおいて、26巡指名というのは決してエリートとは言えない。だが、そこから這い上がって通算400試合以上に投げたのが、今季からオリックスでプレーする左腕フィル・コークだ。

 コークは2002年にドラフト26巡でヤンキースから指名されてプロ入り。実はその1年前にマーリンズからも指名されていたが、この時は49巡指名とあまりに評価が低かったこともあって契約に至っていなかった。ドラフトで指名された選手が契約しない事態は、実はメジャーではさほど珍しくはない。翌年以降により上位で指名される自信があれば、代理人と相談のうえで契約を見送ることはよくある話だ。

 ともあれプロ野球選手となったコークだが、5年間は最高でアドバンスド1Aどまりと伸び悩んだが、26歳となった6年目の2008年に一気にメジャーデビューまで駆け上がり、12試合で防御率0・61と好投。メジャー初勝利も手にしている。

 主に中継ぎとしてキャリアを重ねたコークが最も印象的な活躍を見せたのは、タイガース時代の2012年のワールドシリーズ。コークはジャイアンツ相手に第2戦から第4戦にかけて7者連続三振というワールドシリーズ記録を打ち立てたのだ。この年のポストシーズンでコークは10回2/3を投げて13奪三振で1失点と好投した。ただし唯一の失点はワールドシリーズ第4戦の延長10回に許したもので、これが決勝点となってタイガースはシリーズ4連敗で敗退。最後の最後でコークは苦杯をなめることになってしまった。

 その後のコークはカブス、古巣のヤンキース、パイレーツなどを渡り歩き、2016年までに通算407試合に登板。22勝27敗8セーブ、防御率4・19という成績を残した。

 オリックスでは主に先発で起用され、5月途中までに6試合の登板で2勝3敗、防御率4・56をマーク。ところが13日の試合で負傷降板後に胸郭出口症候群と診断される不運に見舞われた。早期の回復を祈りたいところだ。

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メジャー挑戦後に再来日した俊足巧打のリードオフマン

 日本でプレーした外国人選手がメジャーの舞台を求めて帰国し、その後に再来日することは近年ではそれほど珍しくなくなった。その先駆けとなったのがラリー・レインズだ。

 1930年生まれのレインズがプロ野球を目指した当時、メジャーリーグはまだ黒人選手にとって狭き門だった(ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューは1947年)。そのためレインズはニグロリーグを経て1953年に阪急(現オリックス)へ入団する。

 レインズの持ち味は俊足巧打。開幕20試合連続安打を放つなどいきなり日本の野球に順応し、打率こそ2割8分6厘だったものの92得点とリードオフマンの役目を果たし、61盗塁でタイトルまで獲得した。

 さらに翌54年は打率3割3分7厘で首位打者に輝き、ベストナインにも選出。ただしこれだけの結果を出したことで、レインズの気持ちは悲願のメジャー挑戦に傾いた。55年にインディアンスと契約したレインズは2年後の57年に待望のメジャーデビュー。ただし96試合に出場して打率2割6分2厘、2本塁打、16打点、期待された俊足も5盗塁どまりとインパクトを残せず。翌年に7試合出場したのがメジャーでの最後のプレーとなった。

 紆余曲折を経て古巣の半球に戻ってきたのは62年。ただしかつての輝きは失せており、73試合で打率2割5分2厘、8盗塁に終わり、この年限りで解雇された。しかも入団時の書類偽造まで発覚というオチもついてしまった。

 再来日後の顛末は冴えなかったレインズだが、53年にマークした三塁打16本は今でもパ・リーグのシーズン記録。日本で盗塁王となった外国人選手2人のうちの1人というだけでも歴史に名を刻んでいる。

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日米で初登板初勝利を挙げた右腕

2014年にフィリーズで6勝を挙げたブキャナン。(Getty Images)

 今季が開幕しておよそ1カ月。新たに来日した外国人選手たちも明暗がはっきりしてくる頃だが、ヤクルトに入団した右腕デビッド・ブキャナンは合格点を与えられるピッチングを続けている。

 2009年のドラフト6巡目でメッツから指名されたブキャナンだが、この時は契約に至らず、翌年のドラフト7巡指名でフィリーズと契約。マイナーで着実に実績を築き、2014年5月にメジャーデビュー。初先発でドジャースを5回2失点に抑えてデビュー戦で勝利を挙げた。この年のフィリーズはA・J・バーネット、クリフ・リーの両ベテラン投手が冴えず、チーム自体も低迷期に入って世代交代が始まっていた。そんな中で25歳にして20試合に先発して6勝8敗、防御率3・75とまずまずの結果を出したブキャナンの評価は高かった。

 ところが翌2015年は調子が上がらず、15試合の先発で2勝9敗、防御率6・99と散々。2016年は3Aで10勝9敗、防御率3・98をマークしたものの、メジャー昇格の声はかからなかった。

 そこでブキャナンは来日を決意。低めに変化球を集めてゴロを打たせる投球が日本の打者にも通じ、4月4日の初登板で阪神を8回1失点に抑え、日本でも初登板で勝利を収めた。4月は4試合の先発で1勝1敗、防御率2・25。先発陣の層が薄いヤクルトで貴重な戦力となっている。

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思いやりに溢れた心優しき助っ人

カブスなどで活躍したアルトマン。(Getty Images)

 目の前で人が倒れていたらどうするか。安否を確認する、助け起こすなどが模範解答ではあるが、状況がプロアスリートの試合中となると話は複雑になりそうに思える。だが何が最も重要かを見失わなかったプロ野球選手がいた。それがジョージ・アルトマンだ。

 1959年にカブスでメジャーデビューしたアルトマンは、61年にキャリアハイの27本塁打、28二塁打、12三塁打を放つなど、堅実な中距離ヒッターとして活躍。61年から2年連続でオールスターに選出され、61年の球宴では代打ホームランを放つなど、ビッグジョージの愛称で親しまれた人気選手だった。

 そんなアルトマンが来日したのは68年。低迷する東京オリオンズ(現ロッテ)の救世主として期待を背負い、見事に打率3割2分、34本塁打、100打点をマークして打点王とベストナインに輝いた。

 迎えた70年。アルトマンはこの年も打率3割1分9厘、30本塁打、77打点で前年にロッテオリオンズと改称したチームのパ・リーグ制覇に貢献し、巨人との日本シリーズに臨む。そして1勝3敗と後がなくなった第5戦に事件は起こった。

 同点の7回にレフト線へ上がったフライを追った左翼手のアルトマンは、遊撃手の飯塚佳寛と猛スピードのまま激突。190センチを超えるアルトマンより小柄な飯塚はふっとばされて昏倒してしまった。

 打球はフェアゾーンに落ちて外野を転々。一塁走者はホームベース目指して疾走。負ければシリーズ敗退。この状況でアルトマンが取った行動は、ボールに目もくれず倒れた飯塚を介抱することだった。

 結果的にはこのプレーで失った1点が決勝点となり、ロッテは日本一を逃した。だがアルトマンを非難する声はファンから上がらず、敵将だった巨人の川上哲治監督からも称賛の言葉が出たものだ。敬虔なキリスト教徒であり、チャリティーにも熱心なことから「足長おじさん」とも呼ばれたアルトマンらしさが溢れる行動だった。

 余談だが、飯塚は大事に至らず80年まで現役を続け、通算1000試合出場を達成し、171盗塁をマークしている。

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現役時代は鳴かず飛ばずも監督として開花

2016年からパドレスの指揮官を務めるグリーン。(Getty Images)

 アンディ・グリーンと聞いて日本のどのチームでプレーした外国人選手か思い出せる人は多くないかもしれない。だが彼はいまやメジャーリーグでパドレスを率いる監督にまで出世している逸材だ。

 プロ入りは2000年のドラフト24巡目でダイヤモンドバックスから指名と、期待値は高くなかったグリーン。それでも2004年にメジャーデビューを果たし、2005年に3Aで打率3割4分3厘、19本塁打を放つなど、当初の評価以上の働きをした。

 メジャーには定着できないものの3Aでこの成績なら、と獲得に乗り出したのが日本ハム。しかし2007年に来日したグリーンは開幕前から攻守に不安を露呈し、結局18試合に出場しただけでシーズン途中に自由契約となってしまった。

 帰国したグリーンは2009年にメッツでメジャー復帰を果たすも、ここでも4試合の出場のみ。これが最後のメジャー出場となった。しかし選手としては平凡だったグリーンは、引退後に指導者として非凡な才能を発揮し始める。

 2011年から古巣ダイヤモンドバックス傘下のマイナーでコーチや監督を歴任。2013年には2Aサザンリーグの最優秀監督に選出された。そしてダイヤモンドバックスの三塁コーチを経て、2015年オフにパドレスの監督の座を射止めた。

 ちなみに就任1年目の4月には、ボークを巡る判定に猛抗議して早くも退場処分を受けたグリーン監督。再建途上のチーム事情もあって、68勝94敗でナ・リーグ西地区最下位と厳しい船出だった。それでも今季は開幕10試合を5勝5敗とまずまずのスタート。さすがにドジャースやジャイアンツの牙城を崩すのは厳しいだろうが、ペナントレースを盛り上げる名采配に期待したい。

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首位打者4度のアベレージヒッターが来日も…

メジャーでは4度の首位打者に輝いたマドロック。(Getty Images)

 メジャーで首位打者を4回獲得となれば屈指の巧打者であることに疑いはない。そんな選手が日本のチームに入団するとなればファンの期待も高まるもの。1987年オフにロッテがビル・マドロックを獲得した当時はまさに期待値マックスといった雰囲気だった。

 73年にレンジャーズでメジャーデビューしたマドロックは、そのオフにカブスへトレードされてレギュラーに定着。128試合で打率3割1分3厘と非凡な打撃技術を発揮すると、翌75年には打率3割5分4厘で初の首位打者に輝き、76年も打率3割3分9厘でタイトル防衛を果たした。75年にはオールスターでMVPも獲得している。

 ジャイアンツを経て79年途中に移籍したパイレーツではデーブ・パーカーやウィリー・スタージェルらと共に中軸を担ってワールドシリーズでも活躍し、パイレーツの優勝に大きく貢献した。

 81年と83年にもそれぞれ首位打者とオールスター選出を果たしたマドロック。だが33歳で迎えた84年以降は故障も増えて成績が下降。ドジャースとタイガースでプレーした87年がメジャーでのラストイヤーとなり、来日した。

 当然、ロッテはその実績に好待遇でこたえてファンも期待を寄せたが、さすがに37歳では時代を代表するアベレージヒッターも全盛期を過ぎていた。日本では123試合の出場で打率2割6分3厘、19本塁打、61打点と平凡な成績。1年で退団となってしまった。

 余談だが、最後に打ったホームランは近鉄のリーグ優勝がかかっていた伝説の「10・19」でのダブルヘッダー第2戦で放ったものだった。

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時おり内角攻めの度が過ぎるニカラグア出身投手

メジャーでも珍しいニカラグア出身のパディーヤ。(Getty Images)

 来日したメジャーリーガーは数多くとも、メジャー通算100勝以上の投手となればさすがに限られる。ヴィセンテ・パディーヤはその数少ない例外のひとりだ。

 パディーヤはメジャーでも珍しいニカラグア出身。メジャーデビュー前にはワールドカップでクローザーとして銅メダル獲得に貢献したこともある。

 1999年に21歳でダイヤモンドバックスにてメジャーデビュー。球速80キロ台のスローカーブを含めた多彩な変化球が持ち味で、内角攻めも厭わない積極的なピッチングを持ち味としてまずはリリーフとして実績を積んでいった。

 ターニングポイントはフィリーズ移籍3年目の2002年。開幕から先発ローテ入りしたパディーヤは14勝11敗、防御率3・28と活躍し、オールスターにも初選出された。翌年も14勝を挙げると、続く2年はやや苦しんだが、レンジャーズへ移籍した2006年にはキャリアハイの15勝を挙げている。

 その後もドジャースやレッドソックスを渡り歩いたパディーヤ。2012年までにメジャー通算108勝91敗6セーブ、防御率4・32の成績を残し、2013年にソフトバンクと契約して来日した。ただし右ひじ痛で一時帰国するなど先発9試合を含む16試合しか投げられず、3勝6敗、防御率3・84と、2億円を超える年俸に見合った働きはできず1年で戦力外となってしまった。

 ちなみに得意の内角攻めは度が過ぎることもしばしばで、2006年にはア・リーグワーストの17死球を記録。メジャー通算109死球は2017年開幕時点で歴代67位となっている。

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ナイトの称号を持つスラッガー

ナイトの称号を持つミューレンス。(Getty Images)

 日本のプロ野球とメジャーリーグでプレーした選手は数多くいるが、ナイト(騎士)の称号を母国から授けられた選手はきわめて稀だろう。だがヘンスリー・ミューレンスは紛れもなくオランダのナイトだ。

 カリブ海のオランダ領キュラソー出身であるミューレンスは、1985年にヤンキースと契約。マイナーでは強打者としてならし、1989年にメジャーデビューを果たす。ただしメジャーでは91年に96試合に出場して打率2割2分2厘、6本塁打、29打点を挙げたのがキャリア最高の活躍で、94年にはロッテと契約して日本に活路を求めた。

 登録名を「ミューレン」としたロッテでは23本塁打を放ち、95年から2年間プレーしたヤクルトでも29本塁打、25本塁打とスラッガーとしての実力を示したミューレンス。97年からは再びメジャーへ挑戦してエクスポズ(現ナショナルズ)や新興のダイヤモンドバックスでプレーしたが定着はならず、独立リーグや冬季のカリビアンリーグでの出場機会のほうが多かった。

 引退後は第2回WBCでオランダ代表の打撃コーチを務め、2012年にはオランダのナイトの称号を授与される栄誉に授かった。

 さらに2012年には打撃コーチとしてジャイアンツのワールドシリーズ制覇にも貢献し、13年の第3回WBCからは母国の監督を任されている。ミューレンス監督の率いるオランダは今年の第4回も含めてWBCで2大会連続のベスト4と躍進。温和でポジティブな人柄から選手たちの信頼も厚く、本人も将来的にはメジャーリーグで監督になりたい意向を示している。近い将来には、ミューレンス監督の采配がメジャーでも見られるかもしれない。

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プロ野球史上もっとも長身なオランダ人投手

今年のWBCにもオランダ代表として参加しているファンミル。(Getty Images)

 今回のWBCには、かつて日本でプレーしていた選手たちも多く参加。2次ラウンドで日本とも戦い、ともに準決勝進出を果たしたオランダの救援右腕ルーク・ファンミルもそのひとりだ。

 2014年に楽天入りした際は、日本プロ野球史上で最高となる216センチの長身で話題となったファンミル。かつて楽天でプレーしたアンドルー・ジョーンズもオランダ出身だったが、彼がカリブ海のオランダ領キュラソー出身だったのに対し、ファンミルはオランダ本国の出身でオランダ本国のリーグでプレーしていた。

 20歳でツインズと契約したファンミルはマイナーで経験を積みながらオランダ代表にも定期的に招集。2008年の北京五輪、2013年の第3回WBCに参加している。その間にツインズからエンゼルス、インディアンス、レッズと渡り歩き、メジャーデビューまであと一歩の3Aまで昇格したが、残念ながらその“あと一歩”が届かず。2014年に楽天と育成契約を結んで来日した。

 開幕前には支配下登録も勝ち取ったファンミルだが、一軍ではわずか7試合のリリーフ登板で0勝1敗、防御率4・15と結果を出せず1年で自由契約に。それでも古巣のツインズのマイナーやオランダ国内で現役を続けており、今回のWBCでは日本戦にも登板。2次ラウンドまでに3試合を投げて無失点と母国の躍進に貢献している。

 オランダが決勝まで勝ち進めば、優勝の瞬間にはこのファンミルがマウンドにて勝利の雄たけびを上げているかもしれない。

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引退後はメキシコ代表監督に就任した元巨人助っ人

メキシコ代表を率いるゴンザレス。(Getty Images)

 いよいよ始まるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。各国の代表には日本でプレー経験のある選手たちも数多くいるが、メキシコの場合は元巨人のエドガー・ゴンザレスが監督として代表を率いている。

 もっともゴンザレス自身はアメリカのカリフォルニア州サンディエゴ出身。両親がメキシコ人のため二重国籍を持ち、WBCではメキシコ代表を選択した。現役時代は内外野ともに守れるユーティリティープレーヤーだったが、メジャー昇格には時間がかかり、30歳となる2008年にパドレスで待望のメジャーデビュー。この年は111試合に出場して打率2割7分4厘、7本塁打、33打点とまずまずの成績を残した。しかし、翌2009年はWBCメキシコ代表として選出されたものの、肝心のシーズンでは成績を落としてしまい、出番も減ってしまった。

 そこでゴンザレスは、弟でメジャーリーガーのエイドリアンの助言もあって来日を決意。正二塁手不在に悩んでいた巨人と契約を結んだ。2010年シーズンは打率2割6分3厘、12本塁打、44打点。満塁での勝負強さが光ったが、守備面での不安も露呈し、わずか1年で退団という結果に終わった。

 その後はジャイアンツやカブスのマイナーでメジャー復帰を目指すも果たせず、2012年には再び巨人でプレー。しかし、目立った働きをすることはできなかった。引退後は巨人のスカウトを務め、メキシコ代表監督にも就任するなど精力的に活動。今回のWBCでは弟のエドガーを主砲に据えた代表を率いて頂点を目指す。

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かつての首位打者、引退後にコーチとしても来日

阪神でコーチも務めたオマリー。(Getty Images)

 日本のプロ野球チームに来る外国人選手は契約が終わると帰国して疎遠になることがほとんどだが、もちろんそうではないこともある。その例外のひとりがトーマス・オマリーだった。

 1979年にドラフト16巡目でジャイアンツから指名されたオマリーは、82年にメジャーデビュー。92試合で打率2割7分5厘とまずまずの成績を残すと、翌83年には正三塁手に抜擢される。しかし、打率2割5分9厘、5本塁打、45打点と期待に応えられず、84年途中にホワイトソックスへトレードに出されてしまう。以後はタイガース、オリオールズ、レンジャーズ、エクスポズ(現ナショナルズ)、メッツと渡り歩くもメジャーに定着することはできず、90年オフに阪神と契約して来日。

 するとオマリーは広角打法でヒットを量産。1年目から打率3割をキープし続け、3年目の93年には打率3割2分9厘で首位打者に輝いた。95年にヤクルトへ移籍してからも安定して高い打率を残し続け、6年連続で3割打者と申し分のない結果を残した。

 96年を最後に日本を離れたオマリーは、翌97年に古巣のレンジャーズでメジャー復帰を目指すもかなわず引退。その後は独立リーグの監督を経て2002年から阪神で臨時コーチ、特命コーチとして外国人選手をサポートした。また、駐米スカウトを任されるなど、引退後も阪神とのパイプはつながっていた。

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昨季日本一に貢献、結果を残して再び米国へ

2年ぶりのメジャー復帰を目指すバース。(Getty Images)

 メジャーリーグで伸び悩んだ選手が活路を求めて来日し、日本での経験を糧に再びメジャーの舞台を目指す。オフの風物詩ともいえる光景だが、日本ハムで活躍したアンソニー・バースもこの路線に乗った一人だ。

 バースは2008年にドラフト5巡目でパドレスから指名を受け、2011年にメジャーデビューすると27試合で防御率1・68と上々の滑り出しを見せる。しかし、翌年は先発15試合を含む24試合に登板するも2勝8敗、防御率4・73とチャンスをものにできず、以降はリリーフに専念するも結果は芳しくなかった。そしてアストロズ、レンジャーズと渡り歩いたバースは、15年オフに日本ハムと契約して海を渡った。

 150キロを超える速球に加え、右打者へのスライダー、左打者へのチェンジアップで外角低めを突いてゴロを打たせる投球スタイルのバース。アメリカでは典型的なパワーピッチャーだが、日本では十分に通用した。先発とリリーフの両方で重宝されつつ37試合に登板し、8勝8敗6ホールド、防御率3・65をマーク。そして日本シリーズでは広島相手に3試合で勝利投手となる快挙を達成してチームの日本一に大きく貢献した。

 当然、日本ハム残留も期待されたが、バースは故郷でもうひと花咲かせることを選択。日本ハムを退団し、2月に古巣のレンジャーズとマイナー契約を結んだ。まだ29歳と年齢的な心配もなく、2年ぶりのメジャー復帰は十分に期待できそうだ。

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日米で暗黒時代を経験した不運な投手

 メジャーリーグでも日本プロ野球でも所属チームの暗黒時代を経験。マット・キーオはそんな不運な投手だ。

 キーオは1977年にアスレチックスでメジャーデビューを果たすが、当時のアスレチックスと言えば、72年からワールドシリーズ3連覇の偉業を達成した時の主力打者だったレジー・ジャクソンやサル・バンドらが移籍した後の、いわば過渡期。実際、アスレチックスは77年に63勝98位で地区最下位に沈むと、翌78年は69勝93敗、79年にはついに54勝108敗と黒星を大台に乗せてしまっている。

 そんな中で次世代の主力投手の期待を背負ったキーオは2年目の78年に8勝15敗ながら防御率3・24と奮闘し、オールスターにも選出された。翌79年は開幕14連敗を喫するなど2勝17敗、防御率5・04と低迷したが、80年にはキャリアハイとなる16勝を挙げてカムバック賞を獲得している。この年から3年連続で2ケタ勝利を挙げたのが、メジャーリーガーとしてのキーオの全盛期だった。

 83年途中にはヤンキースへ移籍し、84年はメジャーでの登板なし。その後もカージナルス、カブス、アストロズと渡り歩くもなかなか結果を出せなかったキーオは、87年に阪神と契約。父親のリチャード・マーティン・キーオもかつて南海でプレーした打者であり、親子二代の日本デビューとなった。

 当時の阪神は暗黒時代の真っただ中。新外国人のキーオがいきなり開幕投手に抜てきされたことからも苦しい台所事情がうかがえる。案の定、阪神はこの年からキーオ退団の90年まで4年連続で20以上の借金を背負うありさまだったが、キーオは1年目から11勝14敗、12勝12敗、15勝9敗と3年連続で2ケタ勝利。4年目の90年は故障出遅れもあって7勝9敗に終わってこの年限りで退団となったが、当時の阪神ではまぎれもなくエース格の働きだった。

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名門大学出身の“文武両道”メジャーリーガー

昨季はレッズでプレーしたオーレンドルフ。(Getty Images)

 文武両道なプロ野球選手は日本にもしばしば誕生するが、東京大学や京都大学出身でプロ野球でも大成したという例はなかなかないのが現実。だが世界は広いもので、アメリカでは東大以上の名門大学出身でメジャーリーガーとなった選手も存在する。その一人が、今季からヤクルトでプレーする右腕ロス・オーレンドルフだ。

 オーレンドルフが卒業したプリンストン大学は、あのハーバード大学と同等かそれ以上とも言われる名門。オーレンドルフはそこで金融工学などを専攻し、メジャーリーグに関する論文も書いた。野球でもアイビーリーグの新人王に輝くなど文字どおりの文武両道で、大学から賞ももらっている。

 2004年のドラフト4巡目でダイヤモンドバックスから指名を受けプロ入りしているが、プリンストン大の学位取得は2006年なので、オーレンドルフはプロとなってからも勉強を続けていたことになる。もっともこうしたパターンはオーレンドルフに限ったことではなく、アメリカのアスリートではプロ入り後に学位取得というのは特に珍しいことでもないようだ。

 メジャーデビューはヤンキース移籍後の2007年。さらにパイレーツに在籍した2009年に11勝10敗、防御率3・92とキャリアハイの成績を残した。ちなみに当時のパイレーツはメジャー最弱球団のひとつで、この年は99敗。翌2010年は105敗を喫するありさまだったので、オーレンドルフが防御率4・07と奮闘したにもかかわらず1勝11敗と大きく負け越したのは運が悪かったと言ってもいいだろう。

 故障もあってメジャーでの登板がなかった2014年以降は、2015年にレンジャーズで21試合、昨季はレッズで64試合に登板とリリーフに専念。ただし本人はヤクルトでの先発を希望しており、持ち前の明晰な頭脳を生かしたピッチングで日本の野球に適応できるか注目したい。

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早々に退団した父とプレーをせずに帰った息子

メジャーで実績を残した父のバニスター。(Getty Images)

 長い日本プロ野球の歴史の中でも、親子2代が日本でプレーする機会はそうあるものじゃない。その希少例になりかけたのがフロイドとブライアンのバニスター親子だ。

 父親のフロイドは1976年のドラフト全体1位でアストロズに指名されたバリバリのエリート。翌年には早くもメジャーデビューをして8勝を挙げ、2年目のオフには球宴遊撃手クレイグ・レイノルズとの交換でマリナーズへトレードされた。82年にはオールスター初選手を果たしたほか、209奪三振でタイトルも獲得した。

 83年からプレーしたホワイトソックスでは、5年連続で2ケタ勝利を挙げるなど主力級の活躍を続けたフロイド。しかし、ロイヤルズ移籍後の89年に肩を痛めたことでキャリアは暗転。翌90年は日本のヤクルトと契約して心機一転を図ったがやはり肩は完治せず、9試合に登板して3勝2敗、防御率4・04という地味な成績で6月には退団してしまった。なお、翌91年にはエンゼルスでメジャー復帰し92年もレンジャーズで投げたが、全盛期の投球には程遠く、この年限りでメジャーの舞台を去った。通算成績は134勝143敗、防御率4・06だった。

 息子のブライアンは2003年にドラフト7巡目でメッツから指名され、06年にメジャーデビュー。そのオフにロイヤルズへトレードされると、07年には12勝9敗、防御率3・87と新人王候補に推されるピッチングを披露した。

 だが、父親と違ってその後は9勝、7勝、7勝と尻すぼみ。10年のオフにフリーエージェントとなると、翌11年1月に巨人と契約して出直しを図った。ところが3月の東日本大震災を期に無断帰国して再来日を拒否。引退を確約して退団する騒動となってしまい、親子2代の助っ人外国人にもなり損ねてしまった。

 なお、本当にそのまま現役を引退したブライアンは現在、レッドソックスでデータ解析や投球指導をする職に就いている。将来は投手コーチとして彼の名前を再び目にするかもしれない。

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メジャーで鳴らした強打者も日本の環境に大苦戦

日本では早々に帰国してしまったゴームズ。(Getty Images)

 母国で輝かしい実績を残したとしても、海外でのプレーが必ずしも順調に捗るとは限らない。そこにはプレー以外に異国での生活など、様々な要素が絡んでくるからだ。ジョニー・ゴームズも日本の環境に適応できなかったメジャーリーガーのひとりだ。

 ゴームズはレイズ時代の2005年に21本塁打を放って新人王候補に挙がるなど、メジャーでも十分に強打者として通用しており、確実性は今ひとつながらも20ホーマー前後を何シーズンもクリアしてきた。

 キャリアのハイライトはレッドソックスに在籍した2013年。レギュラーシーズンで13本塁打、52打点を挙げたゴームズは、ワールドシリーズ第4戦で値千金の逆転3ランを放ってチームに流れを引き寄せ、優勝に貢献してみせた。

 2016年の2月に楽天と契約するまで、メジャー13年間で打率2割4分2厘、162本塁打、526打点をマーク。来日したときはすでに35歳になってはいたが、この実績から日本での活躍も大いに期待された。

 ところが開幕から全く調子が上がらず、4月末に家庭の事情で帰国。結局5月には契約解除となってしまった。その後の報道では、言葉の壁によってコミュニケーションがうまくいかなかったこと、また、遠征中に経験した熊本地震によって万一の事態に対応できるのか恐怖を持つようになったことが退団と関係しているという。

 もっとも本来はリーダーシップがあり、チャリティーにも熱心な人格者として知られていたゴームズ。日本では残念ながら活躍できなかったが、それがメジャーでの実績やフィールド外での貢献を否定するものではないことは言うまでもない。

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日本球界に革命をもたらした野球博士

ホームベースを踏むスペンサー(1953年3月撮影)。(Getty Images)

 2017年が明けた早々の1月2日、アメリカからある元選手の訃報が飛び込んできた。ダリル・スペンサー、享年88歳。かつて阪急(現オリックス)でプレーし、日本球界に革命的な変化をもたらした人物として知られた偉人だ。

 1952年にジャイアンツでメジャーデビューしたスペンサーは、2年目の1953年に20本塁打をマーク。しかしこれからという時期に兵役に就き、1954年から2シーズンもメジャーの舞台から遠ざかってしまう。

 それでも1956年の復帰後は内野のユーティリティープレーヤーとして主力の一角を担い、ジャイアンツがニューヨークからサンフランシスコへ移転した1958年にはサンフランシスコ・ジャイアンツ史上初のホームランを放って歴史に名を刻んでいる。

 そんなスペンサーはメジャーでの10年間を過ごした後、1964年に阪急入り。当時の日本プロ野球はまだまだ熟成途上で精神論や非合理的な戦法が主流だった時代。そこへメジャーで培った「ベースボールの常識」を持ち込んだスペンサーの登場は衝撃的だった。

 例えばベースカバーや中継プレーのセオリー、徹底した相手投手の分析、打者に応じた守備位置の微調整や進塁打の重要性。こうした頭脳的な野球はチーム内外に大きな衝撃をもたらし、後に名将となる野村克也の代名詞「ID野球」はスペンサーあってこそのものだとも言われている。

 一方で、その野村と本塁打王を争った際には外国人選手ゆえの逆風も経験。野村のいた南海どころか無関係の対戦チームにまで執拗な敬遠四球にあっている。野村の三冠王達成の裏話だ。

 引退後は故郷であるカンザス州のスポーツ殿堂入りも果たしたスペンサー。彼の来日は、大げさに言えば歴史の転換点だった。

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バリバリのメジャーリーガー、豪速球ひっさげ日本デビューへ

昨季はマリナーズなどで57試合に登板したカミネロ。(Getty Images)

 最近の助っ人外国人はメジャーでも主力級というレベルの選手がひと昔前に比べて少なくなってきた感がある。そんな中で巨人が今オフに獲得したアークイメデス・カミネロは、昨季もバリバリとメジャーリーグで投げていた即戦力右腕だ。

 少年の頃はバスケットボールに夢中だったカミネロは野球を始めたのが15歳からと遅かったらしいが、17歳でマーリンズと契約を結んでいる。それだけ将来性を買われたということだ。

 さすがにプロ入り後はルーキーリーグや1Aでも苦戦が続いたものの、160キロ近い豪速球を武器に地道に成長。26歳となった2013年にメジャーデビューを果たし、13試合で防御率2・77と好投してみせた。

 もっとも翌年は6試合の登板で防御率10・80と振るわず、オフにはマーリンズから戦力外に。しかし2015年は移籍先のパイレーツで開花し、73試合に投げて5勝1敗、防御率3・62と実力を示した。昨季は途中でパイレーツからマリナーズへ移籍したこともあって57試合と登板数を減らしたが、防御率3・56とまずまずの成績を残している。

 最大の武器はマックス164キロとも言われる豪速球。メジャーではこの球速でも打ち返す打者がゴロゴロいるが、日本ではまともに投げればほとんど打たれないレベルだろう。

 ただし、“まともに投げれば”だ。速球派のお約束にたがわずカミネロも制球に難を抱えており、9イニングあたりの平均与四球は4・0個。昨季は頭部への死球で危険球による退場処分も受けている。相手打者にも恐怖だが、味方ベンチにとっても恐怖を与えるかもしれない新守護神候補の日本デビューは必見だろう。

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史上2人目の偉業を成し遂げた“赤鬼”

2008年にフィリーズを世界一に導いたマニエル(右)。(Getty Images)

 日本で助っ人外国人としてプレーし、米国へ戻って引退後はメジャーチームの監督としてワールドシリーズを制覇。この偉業の達成者は史上2人しかいない。その1人が“赤鬼”のニックネームで知られたチャーリー・マニエルだ。

 1969年にツインズでメジャーデビューしたマニエルだが、1974年に移籍したドジャース時代も含めたメジャー6年間ではわずか4本塁打と大成できず。しかし1976年にヤクルトと契約して来日すると本領を発揮。1977年からは2年連続で打率3割、40本塁打、100打点近くをマークし、1978年はヤクルト初の日本一にも大きく貢献した。

 そのオフに近鉄へトレードされると、1979年は顔面死球であごを複雑骨折するアクシデントに見舞われたものの、97試合で37本塁打を放ってタイトルを獲得。1980年は48本塁打、129打点で二冠を制して近鉄のリーグ2連覇の原動力となった。

 引退後は米国で指導者の道を選んだマニエル。インディアンスでマイナーの監督や打撃コーチとしてキャリアを積み、2000年にはついにメジャーの監督就任を果たし、2001年に地区優勝を達成した。

 そして2005年からはフィリーズの監督に就任。2007年は終盤に奇跡の大逆転で地区優勝、2008年にはワールドシリーズ制覇を成し遂げた。2013年途中にはフィリーズ監督を解任されたものの、メジャー通算1000勝を達成している。

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マイナーでタイトル獲得の巧打者、大舞台ではやはり不発に

阪神では結果を残すことができなかったヘイグ。(Getty Images)

 日本のプロ野球チームが新外国人選手を探す際、指標のひとつとするのが3Aでの成績。メジャーリーグではいまひとつ結果が出せなくとも、その一歩手前の3Aで光るものがあるならば日本で通用するのではないか、というのがその理由だ。2015年オフに阪神が獲得したマット・ヘイグも、3Aでは素晴らしい実績を残していた。

 ヘイグは2008年のドラフト9巡目指名でパイレーツ入りし、2012年にメジャーデビュー。しかし、この年は30試合の出場で打率2割2分9厘、7打点、本塁打はゼロとメジャーの壁に跳ね返され、翌年はメジャー出場機会なし。2014年もわずか3試合のみの出場と伸び悩みは明らかだった。

 だが、その一方で3Aでの活躍は素晴らしかった。2013年は142試合の出場で打率2割8分5厘、8本塁打、69打点。シーズン途中でブルージェイズへ移籍した2014年は106試合で打率2割8分2厘、15本塁打、76打点をマークした。

 そして2015年、ヘイグは3Aで136試合に出場して打率3割3分8厘、11本塁打、92打点と大活躍し、インターナショナルリーグのMVPに選出。シーズン終盤には、およそ1年ぶりにメジャー昇格も果たした。しかし、10試合で打率2割5分、本塁打と打点はゼロとまたも不発に終わってしまった。

 そこでこのヘイグに目を付けたのが、長年チームを支えた巧打者マット・マートンの退団が決定的だった阪神。だが、この補強が結果的に大失敗に終わったのは周知のとおりだ。

 阪神では結果を出せなかったヘイグだが、12月にはツインズとマイナー契約を結び、来年の春季キャンプでメジャー復帰を目指すことが決まっている。

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プロ野球史に残る“迷”助っ人外国人

強烈な印象をプロ野球ファンに残したインカビリア。(Getty Images)

 わずか1年しか日本でプレーせず、しかも結果を残せなかったにも関わらずピート・インカビリアを覚えているファンは多いのではないだろうか。ある意味、記憶に残る助っ人外国人だったのは確かだからだ。

 NCAAで長距離砲として大活躍し、のちにアメリカ大学野球の殿堂入りも果たすインカビリアは、1985年のドラフト全体8位でエクスポズ(現ナショナルズ)から指名された。しかし、期待の大砲はこれを拒否する姿勢を見せたため、エクスポズは契約後すぐにレンジャーズへトレードするという条件を提示し、その言葉通り同年11月の契約当日にトレードが実現。もちろんこの対応は問題とされ、ドラフトから最低1年間はトレード不可と新たに規則が定められると、それは「ピート・インカビリア・ルール」と呼ばれるようになった(2015年から、ドラフトを受けて入団した年のワールドシリーズ終了後からトレード可能に緩和)。

 ともあれ、インカビリアは1986年にレンジャーズからメジャーデビュー。アメリカではどの有望株も大抵はマイナーでの下積みからキャリアをスタートするものだが、インカビリアは即メジャーデビュー(しかも開幕4番)だった。その期待に応えて1年目から30ホーマーを放ったインカビリアは、5年連続で20本塁打以上を記録。1991年からタイガース、アストロズ、フィリーズと渡り歩いたが、マイナー落ちはしなかった。

 そんなインカビリアが日本の千葉ロッテ入りしたのは、メジャーリーグがストライキ中だった1995年のこと。大物メジャーリーガーの来日と話題になったものの、三振の山を築いて打率は1割台に低迷し、アメリカでも経験のなかった二軍落ちまで宣告された。何より印象深かったのは、審判への暴言で退場、死球の報復として暴行、ホーム突入の際の捕手へのタックルから乱闘へ発展と、数々のトラブルを招いた気性の荒さというオチだった。

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野球をするのは別人格、ファンを沸かせた元“問題児”

問題行動の一方で日本では人気があったモーガン。(Getty Images)

 外国人選手を獲得するにあたり、各球団は能力はもちろんだが、素行面も調査するもの。前者のメリットを後者のデメリットが上回ると判断すれば獲得見送りもあるが、あえて博打に出ることもある。その成功例がナイジャー・モーガンだ。

 2007年にパイレーツでメジャーデビューしたモーガンは高い身体能力、とりわけスピードを評価される有望株だった。シーズン途中でナショナルズへトレードされた2009年には、120試合の出場で42盗塁をマークしている。

 その一方で、翌年にはスタンドへボールを投げ込んで観客にケガを負わせたり、本塁でのクロスプレーで故意に捕手への危険なタックルを仕掛けたり、大差の終盤では盗塁しないという不文律を破って報復死球を浴び、大乱闘のきっかけになったりと問題行動を連発。ブルワーズ移籍後の2012年には、青木宣親にレギュラーの座を奪われている。

 DeNAと契約して来日したのはその翌年の2013年。開幕直後は調子が上がらず二軍落ちも経験したが、再昇格後は本領発揮。最終的には打率2割9分4厘、11本塁打、50打点をマークした。

 闘争心あふれるプレーや陽気なキャラクターでファンの人気は上々。野球では「トニー・プラッシュ」という別人格でプレーしていると語り、しばしば両手で「T」ポーズを決めてファンを喜ばせていた。

 DeNAを1年で退団したモーガンはインディアンスでメジャー復帰。さらに2015年以降は韓国やメキシコでもプレーしている。

 ちなみに若かりし頃はアイスホッケーとの二刀流で、高卒時にロッキーズからのドラフト指名を蹴ってカナダのWHL(ウェスタン・ホッケーリーグ)チーム入りしたことも。ホッケーでは大成できなかったが、大学に入り直して野球に専念したことでパイレーツからのドラフト指名に繋げたというエピソードもある。

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WS制覇2度の経験者も、巨人では力を出し切れず

ワールドシリーズ制覇を2度経験しているダンカン(左)。(Getty Images)

 メジャーで確かな実績を残したものの、日本の野球に合わなくて結果を出せずに終わった助っ人外国人は枚挙にいとまがない。1998年に巨人入りしたマリアーノ・ダンカンもそうした選手のひとりだ。

 ドミニカ共和国出身のダンカンは、1985年に22歳でドジャースからメジャーデビュー。1年目から142試合に出場して38盗塁をマークするなど活躍し、新人王投票では3位に支持された(ちなみに1位は通算752盗塁のビンス・コールマン)。

 しかし、2年目以降は伸び悩み、88年はメジャーでの出場機会なし。翌89年途中にレッズへとトレードされた。これが転機となったか、90年にはレッズで正二塁手となり、打率3割6厘、リーグ最多の11三塁打と活躍。ワールドシリーズ(WS)制覇に貢献している。

 92年からはフィリーズでプレーし、94年にキャリア唯一のオールスター選出を果たしたダンカン。翌95年途中に一旦は古巣のレッズへ戻ったが、その年のオフにはヤンキースへ入団。109試合の出場で打率3割4分の好成績をマークし、キャリア2度目のワールドシリーズ優勝を味わった。

 ただし、翌97年はシーズン途中でブルージェイズへ放出されるなど低迷。この年がメジャーリーガーとしての最後のシーズンとなる。巨人入りして来日した98年は出だしこそよかったものの、確実性に欠けたこともあって出番が徐々に減り、63試合で打率2割3分2厘、10本塁打、34打点。1年で退団となってしまった。

 引退後はコーチの道へ進むと古巣ドジャースで一塁ベースコーチなどを務め、現在はカブス傘下のマイナーで打撃コーチとして若手を指導している。

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日本球界入りは今季で3度目 “大舞台に強い男”

ジャイアンツでプレーしていたボウカー。(Getty Images)

 レギュラーシーズンでは今ひとつでも、プレーオフの大舞台で活躍して印象に残る選手というのは洋の東西を問わず出現する。ジョン・ボウカーもそうした選手のひとりだった。

 ボウカーは2004年ドラフトで3巡目指名を受けてジャイアンツへ入団。2008年に24歳でメジャー初出場を果たすと、そのデビュー戦でホームランを放つという最高の滑り出しを見せ、さらに翌日の試合でも本塁打をたたき込んだ。この年は111試合の出場で10本塁打、43打点。翌年以降の活躍を期待させる1年目だった。

 しかし、2009年は3Aで打率3割4分2厘、21本塁打、83打点と活躍したものの、メジャーでは31試合で2本塁打、打率は1割9分4厘。翌2010年には、シーズン途中でパイレーツへトレードされるも、やはりメジャーでは結果を出せなかった。2011年にもトレードとなりフィリーズへ移籍。だが、出番はなかなか巡ってこなかった。

 そこでボウカーは日本行きを決断。2012年1月に巨人と1年契約を結ぶ。ここでも一軍には定着できず、レギュラーシーズンでは3本塁打のみだったが、プレーオフでは覚醒。クライマックスシリーズで10打数5安打、日本ハムとの日本シリーズでは2ホーマー、7打点の大当たりで優秀選手に選ばれ、巨人の日本一に大きく貢献した。

 その後は2013年シーズンを巨人で過ごし、2014年はメキシカンリーグでスタートするも5月に楽天入り。2015年には古巣のジャイアンツとパイレーツのマイナーでメジャー昇格を目指すも果たせなかった。今季は独立リーグの福島ホープスと契約して日本球界に復帰。ここではさすがに結果を残し、打率3割2分2厘、11本塁打、50打点の好成績だった。

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日本プロ野球史上最強の助っ人外国人

阪神ファンから今なお愛されるバース氏(背番号44:1987年撮影)。(Getty Images)

 日本プロ野球史上最強の助っ人外国人は誰か。ひいきチームによって挙がる名前は変わってくるだろうが、ランディ・バースがその候補に含まれることに異論のある野球ファンはいないだろう。

 阪神時代は2度の三冠王など燦然と輝く実績を残したバース。だがメジャーリーグ時代は、長打力にこそ定評があったもののレギュラーに定着することはなかった。幼少の頃に足を複雑骨折したことで全力疾走できず、守備にも難があるためというのがその理由とされている。3Aでは1977年に25本塁打、117打点、1979年に36本塁打、105打点と素晴らしい成績だったバースも、メジャーでは5年目の1981年にパドレスで69試合、201打席に立って4本塁打、20打点というのがキャリアハイだった。

 もともとはツインズからドラフト7巡目で指名を受けたバースは、その後ロイヤルズ、エクスポズ(現ナショナルズ)、パドレス、レンジャーズとメジャー6年間で5球団を渡り歩いた。ちなみにエクスポズ時代には後に巨人に所属するウォーレン・クロマティ、レンジャーズ時代にはヤクルトでプレーしたラリー・パリッシュとチームメイトだった。

 阪神をシーズン途中で退団した1988年を最後に現役引退したバース。その後は牧場経営に勤しんだほか、オクラホマ州で長く上院議員を務めている。

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実力は抜群 球界を騒がせた元キューバの至宝

亡命後はアストロズに入団したグリエル。(Getty Images)

 先日、かつて日本プロ野球のDeNAとの契約でもめたことで知られるルルデス・グリエルがブルージェイズと契約したというニュースが流れた。ルルデスは実際にDeNAでプレーすることはなかったが、DeNAの一員として出場していた兄のユリエスキ・グリエルは、弟よりも一足早くメジャーデビューを果たしている。

 グリエルは20歳前後の若さでキューバ代表として頭角を現し、アテネ五輪やワールドカップで活躍。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では大会ベストナインにも選出された実力の持ち主だ。

 その後も第2回、第3回のWBCに出場したこともあって日本での知名度も高く、2014年途中にDeNAへ入団した際には大きな注目を集めた。この年は62試合の出場で打率3割5厘、11本塁打、30打点。翌15年には弟とともに真価を発揮してくれるものとファンは期待していたが、結果としては来日することはなく契約解除。16年2月に弟のルルデスとともに亡命という道を選んだ。

 そして7月にはアストロズと5年総額4750万ドル(約51億2000万円)で契約。1Aから3Aまでわずか13試合の出場と、マイナーを早足で駆け上がり、8月21日にはメジャーデビューを果たした。さすがに未知の投手ばかりで調整が不十分だったこともあり、今季は36試合で打率2割6分2厘、3本塁打、15打点、1盗塁と本来の実力とはほど遠い結果だったグリエル。果たして来季は本領発揮なるか。元「キューバの至宝」のメジャー2年目から目が離せない。

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代打本塁打記録を持つジャーニーマン

1999年に自己最多の38本塁打を記録したステアーズ。(Getty Images)

 ワールドシリーズも終わると、メジャーリーグでは選手の移籍やコーチ陣の刷新が各球団で始まる。フィリーズでも新たな打撃コーチが発表されたが、そこで名前の挙がったのが元中日のマット・ステアーズだった。

 ステアーズが来日したのは、メジャーデビューして2年目の1993年途中。エクスポズ(現ナショナルズ)で通算19試合に出場しただけで、中日でも60試合の出場で打率2割5分、6本塁打、23打点と目立たず、この年限りでアメリカへ戻ってしまったため、日本のファンには印象が薄いかもしれない。

 だがメジャー復帰を果たしたステアーズはここから本領を発揮する。96年から所属したアスレチックスでは主軸を務め、1999年にはキャリアハイの38ホーマーと大活躍。その後もカブス、ブルワーズ、パイレーツ、ロイヤルズ、レンジャーズ、タイガース、ブルージェイズ、フィリーズ、パドレス、ナショナルズと渡り歩いて長い現役生活を過ごし、晩年は代打の切り札として各チームで重宝された。ちなみに代打通算23本塁打はメジャー歴代最多記録となっている。

 日本も含めて数多くのチームで数多くの投手と対戦した経験が、低迷の続くフィリーズの打線をどう甦らせるのか。まずはお手並み拝見だ。

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黒田とは不思議な縁? 移籍を繰り返しローテを担う投手へ

パドレスでは好成績を残したスタルツ。(Getty Images)

 ドジャースで黒田博樹投手とチームメイトとして過ごし、後に黒田の古巣である広島へ移籍した左腕と言えば誰か。すぐに名前が出る人は相当の広島ファンだろう。答えはエリック・スタルツだ。

 大学時代は投手と外野手、さらにバスケットボールと三刀流をこなしていたスタルツは、2002年にドラフト15巡目指名でドジャース入り。先発投手としてマイナーでキャリアを積み、2006年9月にはメジャーデビューを果たす。その後もドジャースのチーム事情に応じて先発ローテの穴を埋めてはマイナーへ戻るという形ではあったものの、まずまずの結果を出し、2009年には故障した黒田の代役として10試合に先発して4勝を挙げた。

 これが広島の目に留まったのか、2010年3月に契約合意。ただし、日本では21試合に先発して6勝10敗、防御率5・07と期待に応えられず1シーズンで戦力外に。この年の11月にはロッキーズとマイナー契約を結んでいる。

 そのロッキーズと次の移籍先であるホワイトソックスでは結果の出なかったスタルツだが、2012年シーズンの途中にパドレスへ入団したことで事態が好転。同球団では8勝3敗、防御率2・92の好成績でこの年を終えると、翌13年は開幕から先発ローテーションを担ってキャリアハイの11勝(13敗)をマークした。

 14年は8勝17敗と大きく負け越したものの、防御率は4・30とそこまで悪くなく、先発ローテを全うした。15年はブレーブスでマイナー契約からメジャー昇格を果たしたが、9試合でわずか1勝にとどまり、5月末には6人が絡むトレードでドジャースへ復帰。ただし、メジャーでの登板機会は最後まで得られぬまま退団となった。

 それでも、スタルツもまた、日本でのプレー後にメジャーで活躍した選手のひとりであることに違いはない。

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